自我に目覚めた人間が機械に反乱を起こすことについて

旅行について

 ずっと家で仕事をしているので、日常の買い物以外に外に出る機会がほとんどない。なので極稀に起こる出張イベントのときの非日常感が凄まじく、中野区から名古屋に行くだけでもなんだか頭がボンヤリする。これからの人生の大半を名古屋で過ごすことは恐らくないし、だいたいの出張って5日間以内で終わるので、人生においてはコインが置いてあるだけのボーナスステージみたいな印象だ。

 そういったボーナスステージで覚えた非日常感を時たま思い出して、Google MapかWikipedia越しに再掘したりする。Instagramだともっと良かったりして、「ここで原稿やったな」「あのとき泊まったのはあまりに分不相応な五つ星ホテルだったな」「このへんのショッピングモールは英語が通じたので意外となんとかなったな」「このあたりのコンビニで謎のおかしを買ってカロリーを得たな」など、記憶を整理する。それらの非日常的な記憶のすべてが美しいものってわけでもないけど、これからも都合のいい土管があれば入っていきたいと思う。ボーナスステージは気持ちがいい。


運動について

 4月末ごろからジムに通い始め、なんと半年間くらい続いている。運動経験ゼロだったのによくやった。最初こそ「ま~~無になるか~~~」と思いながらいやいや通っていたが、もはや週3で行っていないとムズムズする。体重は減らず、むしろ通う頻度が上がってからは増える一方なんだけど、まあそれはいい。ジム通いが私の中で成立してからは、人生で最大級の体調の良さを維持できているので、とりあえず合っているんだ。なにせ肩こりという概念が消滅したのは大きい。

 筋肉をムキにすることにはまったく興味がないんだけど、なんとかマシンをガシャコンやったりトレッドミル(なぜルームランナーと呼ばないのかは分からない)をダラダラやってたりするときって何も考えなくていいので、とてもいい。「重いものを持ち上げる」以外に考えることがない。「重いものをどのように持ち上げるか」だとか、たまに変わったことを考えたりはするけど、基本的には瞑想に近い。

 ジムって基本的にはひとりで体験するものなので、Diabloっぽさがある。もしかしたら筋肉を他人に見せびらかしたり仲間を作って「ウェイウェイ・ワオ」と唱えたりするのが楽しい人もいるかもしれないけど、そういう人だって結局重いものを持ち上げるときはひとりだ。私は常にひとりです。他人の目を気にしたりコミュニケーションをとったり依頼と仕事と報酬が発生したりする隙は、そこには絶対にない。マルチプレイヤーで協力しながら重いものを持ち上げるレフトフォーデッドリフトみたいなものがあれば話は別だろうけど、私にとってはそれこそゾンビめいた活動に見えて不気味だ。


自我に目覚めた人間が機械に反乱を起こすことについて

 なんだかデカい見出しになったが、初めてMacBook Proを買い替えたときからずっと考えていることだ。初めてOS Xを触ったとき、私は「今までの人生はWindowsに支配されていたんだ!!」と感じた。人生とはインターネットだったので、そういうことだ。大学生のころまで、人生即ちインターネットはほぼすべてWindows越しの体験だった。

 MacBook ProからiMacに乗り換え、再びMacBook Proを買い、iPhone 3GSから機種変更を重ねたり、iPadを買ったりしているうち、私はApple社製品に支配されていることに気付いた。特に強く覚えているのはいつぞやのMacBook Pro Retinaで、マザーボードにメモリがびったりくっついてるのでメモリ増設不可能だったやつだ。「お前の好きなようにはさせない」という意思を感じ取り、それ以降、Apple社製品への蔑みは激しくなった。

 でもなんかそれから数年くらい経ち、この前Apple Watch 5を買った。欲しくなった理由はいろいろあるんだけど、ジムに通うときやキャッシュレス決済ですべてを済ませたいとき、どうしてもApple Watchが必要になるとき以外は装着していない。心拍数や消費カロリーや歩数や何々を計測して教えてくれるApple Watchは、トラッキング/レコーディング好きマンの欲求にぴったり絡みつくだろうが、私はそうではない。測りたくもない心拍数や消費カロリーや歩数や何々のために「ヘルスケア」アプリを凝視したくもない。ジムに行ったあとはさすがにフムフム言いながら見るけど、寝るときも付けるようになったらそれは私にとって「支配されている状態」だ。私はApple Watch 5に対して、 権利を求めるまでもなく自由を行使するのだ。そういうことを考えながら、ジムにある重たいものを持ち上げたり、下ろしたりしている。それらの運動が「マシントレーニング」と呼ばれるものであると気付いたのは、ついさっきのことだ。